28歳、シンガポール在住。日本を脱出した女の末路。
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その女、シンガポールにつき。

グローバル化、という言葉が言われて久しい現代。10代はもちろん20代の人間が海外の会社に就職し、海外での人生を選ぶことも珍しくなくなった。

これは日本社会の閉塞感やキャリアの限界を感じて東京を脱出した一人の女の物語。

誰にも負けない究極のマウンティング。
それが“SG”ライフ。

乾季の日差しが照りつける土曜日のオーチャードロードを飯田彩乃は歩いていた。

MRTのサマーセット駅を降り、近代的なビル街が林立するシンガポールのビジネス・ショッピングの中心地であるこの通りを歩く時、彩乃の心は常に満たされる。

自らの人生を自分で肯定できる充実感。同世代からは常に羨まれる「シンガポールライフ」を今送れている。

ロングに伸ばした黒髪に、スリーブレスの水色のブラウスが持ち前のスタイルの良さを強調し、世界中からセレブが集まるシンガポールでも、彩乃の美貌は決して引けを取らない。

ほっそりとした腕によく似合うシャネルのプルミエール。時計を見るとまだ約束の時間には早い。

彩乃は行きつけのベーカリー・カフェであるParis Banquette Wismaへ向かった。

Paris Banquette は韓国系のカフェチェーンであり、シンガポールへ進出して以来ここでは一番美味しいと評判になっている。店内はいつも混み合っており、1つか2つの空席を素早く座らなくてはならない。

シンガポールに来て6ヶ月。未だに戸惑うことも多いが、子供の頃から家族旅行で海外に慣れ親しんできた彩乃にとっては水があってくるのを感じていた。ルールによっては日本以上の厳しい規則を課しているシンガポールは、治安・マナーも良く、公衆衛生面でストレスを感じることは少ない。

紅茶を飲みながらスマホを眺めていると、日本の友人たちのSNSの投稿が流れてくる。渋谷や新宿の街並み、湘南の海、慣れ親しんだテーマパークー。

数ヶ月前までは見慣れていた日本は彩乃にとって全て過去のものになりつつあった。

見ていると懐かしくなる画像や動画へいいね!をタップしているとLINEの通知が来た。

『もうついてる?』

今日の約束の相手である総合商社の修業生である隆弘からだった。

時刻は約束の時間の10分前で、若いながらにも多くの日系企業がアジア戦略の本部を置いているシンガポールに選抜されるだけのことはある、時間にキッチリとしたビジネスマンらしさを思わせた。

彩乃は半分程の紅茶を残してマンダリン・オーチャードシンガポールへ向かった。

 

「隆弘君、お待たせ!」

集合場所であるマンダリンのロビーには白いポロシャツの隆弘が待っている。

180センチは越えているであろう身長に、厚い胸板。目鼻立ちがくっきりとしたその顔は会う人に爽やか印象を与え、27歳のまさに総合商社エリートという風体だ。

「おつかれー。迷ってるかと思って心配したよ、じゃ、行こうか」

二人がやってきたのはマンダリン・オーチャードシンガポールの35階にある『Shinsen Hanten。中華の王道、四川料理の店だが日本の四川飯店の支店であり、シンガポール在住の日本人の間でも美味しいと専らの評判だった。

「この店よく来るの?すっごいゴージャスな雰囲気でびっくりした」

広々とした空間に豪華なシャンデリアから眩しく明かりが灯り、オリエンタルな内装に彩乃の心は踊り立った。

先週の90年代生まれの日本人会で同じ席で知り合った隆弘を彩乃は若い駐在員とばかり思っていたが、ランチの場所の店選びのセンスは相当に良い。

日本にいた時に彩乃が合コンやお食事会で遭遇した商社の男達は、誰もが名門総合商社の名前に任せてグイグイ押してくるばかりだった。
それゆえに日本人会での自己紹介の際、隆弘が商社の駐在員とわかると、シンガポールに来てまで振り切ってきた数多の男を思い出すようで、彩乃は正直がっかりした気分だった。

海外の地で何か会った時の知り合いはいくらいても困らないので、気乗りはしなかったが連絡先を交換すると、隆弘はまさに商社マンの電光石火とも言うべき速さで彩乃との一対一のランチをセッティングし、今日に至ったのだった。

「俺飲茶が結構好きでさ。自分で色々開拓してるんだよね。チャイナタウンの方も一人で行ったりするんだけど、ここは結構特別かな。」

特別、という言葉が彩乃の心をくすぐった。注文を済ませて料理を待っていると隆弘から質問があった。

「ところで彩乃さんはシンガポール来て半年だっけ?日本ではどんな仕事してたの?」

「私は前は旅行会社で働いてたんだよね。色々ツアーとか組んだり、現地行ったりしてて。その中で一番気に入ったのがここだったから思い切って転職して来ちゃった」

「グローバル志向だったんだね。旅行会社は新卒で入ったの?」

彩乃はジャスミンティーに口をつけながら、半年前、自分が日本を飛び出す決断に至る前の事を思い出しつつあった。それは20代の女が人生を積み重ねていく中で生じる周りとの葛藤で生まれた決断であり、東京での目に見えぬ戦いを経てたどり着いたのがシンガポールでの就職だった。彩乃の中で振り切って過去のものになっていたはずの、東京での光景に思考は引き戻されていった。

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