古くから「天下人」が生まれ立志した東海地方。
ここ日本では首都こそ東京と言われて久しいが、経済ではどうか。
日本はもちろん、世界でもトップの自動車産業はここ名古屋に拠点を置く。
この物語は、そんな日本に誇る超大企業に入社した男の栄達と野望、挫折の物語であるー。
(原案:はちお 文:加藤)
*これは架空の物語であり、過去あるいは現在においてたまたま実在する人物、出来事と類似していてもそれは偶然に過ぎないことをあらかじめ断っておく。
将来を嘱望される新入社員、羽柴。
それは今や昔。本社から遠く離れた工場でただ一人、現場に甘んじていた。
北西から強い風が吹き付ける三河湾の西側に、鍵型の形をした渥美半島はある。
水深の浅い煌めく海岸を臨む愛知県は田原市。海に面したこの街の郊外にひときわ大きい白い屋根の工場群が広がっていた。
緑が浜と呼ばれるこの地域に、ミカワ自動車の愛知県の生産拠点で最も南側に存在する田原工場がある。
1980年から稼働をした田原工場は世界各地、50カ国以上で展開する「ミカワ」の工場の中でも最もオートメーション化された「最新」工場との呼び声が高い。
しかし、東京本社からはもちろん、名古屋本社から離れたこの地に、キャリアを嘱望される総合職の新入社員が配属されることはほとんど無かった。今年、ただ一人を除いては。
世界のあらゆる自動車工場よりも早く、ミカワの工場は稼働を始める。朝8時になると規則正しい金属をプレスする音が工場内に鳴り響き始める。
「安全第一」「整理整頓」と書かれた看板が工場のどこからも目に入る。車体フレーム吊り下げラインにぶら下がったボディが動き始め、職工と呼ばれる作業員達は既に作業を進めていた。
世界でも有数の生産量を誇るミカワの工場だが、人の手で作業される工程の現場は不気味なほど静まり返り、グレーの作業服を着た人々がパーツと工具を扱う音と、搬送コンベアの駆動音だけが聞こえている。
ここ田原工場では約90秒ごとに1台、ミカワの最上級シリーズであるヴェルサスのSXモデルが出来上がる。
全世界で羨望の眼差しを受けるこのモデルの完成車の価格は1台あたり1,500万円を越え、まさにミカワの世界戦略の核をなす商品である。
それだけに、わずかなミスも許されない為、この工場には期間工と呼ばれる契約社員は殆ど少ない。重要工程には工業高校や高専を卒業し、鍛え上げられた「現場のプロ」が関わっていた。
叩き上げの職人に混じって、インストルメンタルパネル工程、通称「インパネ工程」で動き回る一人の若い男がいた。
「計器盤ヨシ!」
「サイドレジスターヨシ!」
周りの職工達とは異なり、新人らしく大声で一つ一つの確認を行っている。
短髪に深く作業帽を被り、身長は低く、去年の春に大学を卒業したとは思われず高卒の新人とも間違われる事もあった。しかし目には力が籠もり、作業一つにしても動きは素早い。
男の名は羽柴藤太郎(はじばとうたろう)。
同期の中で唯一人、本社から離れた工場への配属を解かれず、更には現場での仕事を続けさせられているにもかかわらず、羽柴の目はいささかも腐った様子を感じさせなかった。
「おいっ!貴様っ!!」
作業に「班長」と書かれたえんじ色の腕章をつけ、ヘルメットを被った40代後半の職工が羽柴を怒鳴りつけた。
常滑市の出身で、20年以上叩き上げでミカワのラインを守り生産量維持に貢献してきた「鬼班長」のあだ名を持つ男だった。
現場の社員はもちろんだが、現場で何かあればキャリア待遇の総合職の社員にも容赦なく檄を飛ばす。現場に魂を持ってやっているというのが口癖だった。
「何をやっている! 作業手順を守らんかあっ!」
鬼班長がそのまま殴りつけんばかりに怒気を飛ばすと、羽柴は作業を止めた。
「申し訳ございません。しかし御存知の通りSXのインパネの接続部分は通常ラインとは異なっております。接続部の確認を行う事で、後工程で発生する異常を確実に防げ、結果として生産性を上げる事が可能です」
羽柴は鬼班長の方へ向き直り説明した。事実、SXには通常のミカワ車と異なり、ナビゲーションやAVシステムを画面上で操作する際、タッチパッドを使用する。
それ故接続部の仕様が異なっており、数百台に1台だが動作不良を起こしていた。
ディーラーからのクレーム報告が上がっているという報告も共有されている。
「お前が作業手順を守らないせいで、1台あたり3.5秒工程が遅延しているのだ!何度目だ、貴様!勝手なことをするんじゃない!」
羽柴はここ田原工場の生産管理課に所属しており、全体の生産性向上を目指す部署であったが、未だ現場作業をさせられていた。
新入社員とはいえ、総合職社員で未だに現場に従事している社員は羽柴一人のみであり、今怒鳴りつけられているこの状況も耐え難い状況であった。
しかしながら羽柴は生産管理課の立場として、自分なりの分析を作業手順に落とし込み取り組んでいるのであった。
頭に血が上り完全に説教モードなった班長の所へそろそろと歩み寄る者がいた。
ベッタリとした七三分けに銀縁のメガネをかけた、生産管理課長の古橋だった。
普段は事務系社員が勤務する本館で勤務しており、用が無い限り工場に顔を出す事は無い。羽柴の上司にあたる人間だったが、今日は外部見学者の対応で工場案内をしていたようであった。
スーツのポケットにVISITORのバッジを付けた見学者と本社からの出張者を数名、連れ立っている。
「八田班長!どうしました?おやあ…羽柴君、また君かね」
班長の怒りを買い、問題を起こしているのが自分の部下とわかると、古橋は露骨に不快そうな表情を顔に浮かべた。
羽柴は自らが作業手順を外して工程を実施したわけを説明したが、案の定を聞き入れられる事は無く、課長・班長二人がかりで詰められる事となった。
事前に報告をしていなかった事は自分に非があるが、本社営業を経由して上がってくるディーラーに届いたクレームは生産管理課の会議でも報告されており、羽柴も目を通していた。ただ一人、総合職として現場にいる以上、この問題を見逃すことはできなかった。この工程での作業は既に半年以上経ち、何か役立つために動きたいという気持ちからの行動だった。
「インパネの接続の問題は生産技術チームで検討しているといっただろう。君は新人として作業手順を守って仕事をするよう、再三求めたはずだ。何故同じことを繰り返すのかねえ」
入社時点、抜群の成績で入社をした羽柴だったが、評価が高いのは4月までだった。
集合研修時のある出来事が原因で、要再教育の烙印を押されてしまった。そんな「札付き」の新入社員の上司となった古橋は酷薄な態度を隠そうともしない。
「おい、ちょっと待て。その作業についてもう一度説明してくれるか」
見学者の一団からスーツ姿の長身の中年の男が近づき声をかけてきた。
男は細い顔立ちだが、切れ長の目が見る者を射抜くかのような凄みを持っていた。
「織田室長…!わざわざご出張くださった中、組み立てラインにお越しになるわけには参りません。ちょっと教育中の新人でしてねえ。指導をしておきますので次に参りましょう」
古橋の取り繕った顔と言葉には目もくれず、織田と呼ばれた男は目を見開いて言った。
「俺が質問したのはそこの作業をしている新人だ。おい!その作業について説明するんだ」
さっきまで鬼班長と上司に詰められていた羽柴は、何やら常ならぬことが起きた空気を感じ取りながらも、先程の説明を繰り返した。
織田はSXのインパネ接続不良を防ぐための羽柴の改善作業について聞き終わると、細く尖った自分の顎を指でなぞりつつ、何やら考えをめぐらしている。
「SXの接続不良は海外の各国の販売ディーラーから私のところにも報告が上がっている。彼の視点と作業は一考の価値ありだ。至急全作業への落とし込みを検討するのだ。」
「はっ…はい!」
織田のドスの効いた声に小役人のように古橋は返事をする他無かった。
羽柴は自分の目の前で何が何やらわからぬ内に事が進み立ち尽くしていたが、自分の立場が守られた安堵感をじわりと感じ取っていた。
見学者の一団に戻ろうと歩いていった織田が振り返る。
「午後の作業前に本館の会議室に来い。いいな」
羽柴の返事を聞き終わる事もなく、織田は去って行った。
不遇の日々を送っていた羽柴だったが、どこの誰かも分からない上司に窮地を救われた。そしてこの織田との出会いが何か大きな事につながっていくのではないかー自分の仕事人としての運命が動きつつあるような感覚を覚えた。
(つづく)